凍りついた法律による別世界の存在
Tathara/20代/女
ある年の秋の始め 朝6時に玄関のブザーが鳴り「下の階の者ですが」と若い女性の声で起された。うちの集合住宅は皆顔見知りで、下の人の声ではないので、娘さんが来てるのかな?こんな早朝に何ごとかと思い、「どうしたのですか」となんの警戒もなしにドアを開けてしまった。すると外には7〜8人の見た事もない男性が立っていた。先頭の人が、私が閉めないようにドアを手で押さえたのを見て、ようやく尋常ではない事態であることを察知した。
「××××さん(私の名前)だね?」「そうですが、何か」「◯◯警察だが、あんたに大麻取締法違反の容疑がでてるから、部屋の中を調べさせてくれるか?」と捜査令状を見せらた。起き抜けだったこともあり、頭が大混乱して「ちょっと着替えさせて下さい」と部屋に入ろうとしたら「そのままでいいから動かないで」と玄関に立たされたまま全員が入ってきた。さっきの声の主である若い女性捜査官に衣服検査をされ、そのあと検査用に尿も採取された。その間に他の捜査官達は部屋中を探し始め、あえなく一人の捜査官が「ありました」とベランダで栽培中の大麻を発見した。
「なんで捜査に来たと思う?」と聞かれ、全く解らず黙っていたら、「誰かに譲っただろ?」といわれ、「マズイ・・これは誘導尋問に違いない」と感じ、まだトボけていたら「△△知ってるだろ?こいつに譲ったろ?」と捜査官のほうから切り出したので「はい・・」と正直に答えた。「終わった・・」と心底絶望し、喉がカラカラになった。
「何時何分、大麻草発見」と復唱したり、私に大麻を指差すポーズをさせた写真を撮ったりして、「この他にはもうないのか」と聞かれたので「あります」と収穫していた分を出すとまた同じくその場で指差し写真、証拠品(栽培に使用した肥料、園芸用具などと、吸煙に使用したパイプ、ネット、ライターなど)もすべて指差し写真を撮り、押収品目録にサインし「多分長くなるから、冬服を持って行ったほうがいいよ」とアドバイスなどを受けた。
「電話を2件、友人と会社に掛けさせて下さい」と捜査員に頼むと「逮捕の様子などは話すな」と事前に注意されたので、友人には「大麻で逮捕されてしまった。捜査員がたくさん来ている。今から◯◯警察に連行されます」としか伝えられず、詳しいことは何も話すことができなかった。友人は非常に驚き動揺していたが、それを押さえて緊張しているのが伝わってきた。制限された私の数少な
い言葉から、捜査の状況や私の心の中を、一生懸命読み取ろうとしていたのだと思う。
署に連行されるにあたって衣類や洗面具諸々を準備させられた。捜査の間中、一人の年輩の捜査員が「いい歳して結婚もせずにこんなことして・・嘆かわしい・・」としきりにため息をつきながら何度も呟いていた。
「じゃあ、◯時◯分、××××、大麻取締法違反の罪で、逮捕するからな」と逮捕状を出され、玄関を出る時に手錠と腰縄を掛けられた。建物を出る時、何人かの通行人が見ていた。
こうして私は逮捕され、その先2ヶ月半の勾留生活が始まったのだった。
1box車に乗せられ管轄の警察まで向かう途中、空が恐ろしいくらい青かった事をよく覚えている。本来ならちょうどその日から、引き抜きされたクライアント会社で働く筈であった。ますます絶望的になってしまった。
私が逮捕された前日のお昼頃、知人の△△さんが逮捕されており、その後取り調べでわかったのだが、△△さんには以前から警察の内偵調査が入っていて、何日も前から張っていたということだった。もちろんそんなことは知る由もなく、私は軽い気持ちで自家製大麻を彼に譲渡してしまった。調べで△△さんはずっと「そこらで売人から買った」と言い張っていたそうだが「お前、これは見るからに自家栽培じゃないか。これの指紋とったらすぐわかるんだぞ」という言葉に「もうこれ以上隠しようがない」と判断して、正直に私の名前を吐いたということである。
話しによると、通常ならば家宅捜査令状(裁判所の許可)は警察が申請してから48時間かかるらしいが、事件によっては最短で8時間というのがあり、私の場合それが採用されたもよう。営利目的で栽培している組織の恐れがあると判断されたのではないかと思う。だから大勢で来てみてさぞガッカリしたことだろう。プランターに数本だったので。
警察署に到着し、指紋掌紋と写真を撮られ、最初の取り調べ。出身地や履歴、家族構成などが主で、私は緊張によりその間3回ほどトイレに立った。もちろん婦警さんが腰縄をもってドアの外に立っている状態での用足し。
留置場では、まず更衣室のような場所で入院患者のような服に着替えさせられ、身体の特徴(入墨や手術痕など)を調べる。「担当さん」という総称で呼ばれる留置係の婦警さんが、持ってきた衣類などをこと細かくチェックし、ひとつひとつリストにしていく。[長袖丸首Tシャツ、緑色、おもてに黒で『HAPPY』とプリント、タグに『UNIQLO』と記載]といった具合。それを見ていて、あぁ、お役所なんだなと感じた。
夕方それらが終わり、いよいよ留置房に入れられる。担当さんから「これから、××××は◯◯番と数字で呼ぶからな。同室の人のことも番号で呼ぶように。」と告げられ、ここでは名前もないのだと思うと悲しくてならなかった。初めて入った留置房は、ビックリするくらい壁が白くて、蛍光灯がさんさんと眩しく、6帖の畳敷き(ビニール製)に頑丈な格子戸だった。中にある和式トイレはドアと壁で仕切られてはいるものの、ガラス窓があり担当さんから上半身は見える仕組みになっていた。
何をしていいのかわからず、支給されたアクリル毛布にくるまって横になった。夜中も監視のため蛍光灯は1本だけ点灯したままで、私は普段電気を全て消し真っ暗にして眠るので異常に眩しく感じた。
次の日、初めて裁判所と検察庁に行く事になり、なぜ裁判所に行くんだろう、もう裁かれるのだろうかと不安になっていた。私は逮捕自体が初めてのことで、流れが全く把握できなかった。
「弁護士は国選にするか私選にするか」「何のことか解らないのですが」「裁判は弁護士をたてないとできません」「わからないので後日答えます」「あなたが逮捕され現在◯◯警察に身柄を拘束されていることを誰かに知らせますか」「誰にも知らせないで下さい」「・・・普通は親族に通知するのですが」「知られたくありません」
私は長くても2〜3週間で釈放されると思い込んでいた。まだ、まさか自分がこの先長期勾留されるとは信じられなかったのだ。だからその間、家族には内緒にしておこうと思ったのである。しかし押し問答の末、裁判所側の説得により母に知らせる事になった。私は家族だけは悲しませたくなかったが、そういうわけにはいかなかった。この決断をした時が、逮捕された瞬間より百倍つらかった。留置所に戻って、逮捕されて初めて泣いた。そして母に手紙を書いた。
親子の縁を切られても仕方のない事をしてしまいました。
ただ、人様の者を盗んだり、人を傷つけたりということはしていないので安
心して下さい。お体に気を付けて、さようなら、お元気で。
とまるで遺書めいた手紙を出した。事件の詳しい事は家族でも話してはいけない決まりになっているので、何で、どういういきさつで逮捕されたのかがわからず、その間家族や友人たちは大変心配していた。
留置生活は、全てが時間割通りである。7時起床、布団の片付け、洗面、歯磨き、部屋の掃除、8時朝食、〈この間に『運動』という名の喫煙タイムがある。収容部屋からコンクリート囲いの裏庭に出て一度に2本立て続けに吸って終わりだが、一日のうちこの時間だけ外気に触れられ、金網越しの空を仰げるので、喫煙者でなくてもみんなで出て、ボーッとしていた〉12時昼食、6時夕食、8時半頃布団敷き、歯磨き、なぜかお茶、そして9時消灯、就寝。でも時計はないので前述のスケジュール以外の時間帯は「今だいたい10時半くらいかな」などと予測するだけ。この留置場の食事は、3食とも異常に白飯の量が多く、おかずも油ものばかりでいつも残していた。気分的にも食べたくなかった。風呂は週2回で、うち1回はシャワーのみ。時間も決められていて約15分間。とにかく頭がカユくて、いつも掻きむしっていた。
留置での初めての取り調べに現れたのは私の事件の担当刑事だというA刑事と、見習いの警察学校生のB君だった。
最初に、いきなり世間話や趣味の話をしたりするので驚いていた。和やかムードでかなり打ち解けてきた頃、実にフレンドリーに「大麻ってのは、吸ったらどうなるんだい?」と聞いてきたので「ゆったり楽しい気分になり、ちょっとしたことが可笑しかったり、音楽が良く聞こえたり、食べ物が美味しく感じたり、色彩が鮮やかに見えたりします。最後は眠くなります」と細かく表現してしまった。すると早速「しょっちゅう仲間とやってるんだろ。そうじゃなかったらそんな具体的な表現はできないはずだ」と指摘され、青ざめた。グルグルと目眩がしてきて、「いいえ、一人でやってそう感じました」と苦しみつつ答えると、「みんなそう言うんだよ。いいか、俺の取り調べで今後、嘘の証言したら承知せんぞ」と冷たく脅され、頭ががんがんしていた。こんな取り調べがこの先続くのかと思うと、これからは気を引き締めて取り調べに臨もうと決意した。
その日の午後、電話をした友人が初めて接見に来てくれた。普通、大麻で逮捕されると接見禁止が付くのだが、私は何故か逮捕から3日目にはこうして接見が認められた。憶測だが、共犯者が既に逮捕されていて、その他に繋がる者が特に該当しなかったからかなと思った。友人は伝達事項や必要な物等をメモして帰って行った。メモを持つ手が大きく震えていた。その時の友人の心境を思うと本当に申し訳なかったという思いでいっぱいである。友人には今も心から感謝している。
「捜査の際おまえんちの本棚を調べたが『マリファナ・ハイ』などの大麻関連の書籍などが1冊もなかったが、大麻栽培の知識は誰から教わったのか」との質問もあった。幸い、私は暗室も、照明も、ヒーターも何も使わず、成長を横へ広げることもせず、ただ窓からの日光でまっすぐ伸ばしていっていたので、「ハーブを育てるのとおなじ要領で発芽させ、栽培した。まったくの自己流であり、大麻栽培の専門的な知識はない。栽培中も秘密にしていて誰一人知らなかった」と主張した。
その後日の調べで、共犯者と私とを繋ぐ友人の名前が上がって「こいつもやってるんだろ」と言われ、心臓が止まりそうになり「この人はまったく関係ないです。やってるわけがない、第一私の逮捕を心底驚いていたし」と声を荒げて主張した。私は自分の顔が真っ赤になるのを感じ、心臓が激しく脈打つのを生まれて初めて自覚し、恐くて手が震えた。刑事に悟られないよう膝の上で握り締めていた。刑事は、「大麻をすると、さらに大きな快楽を求めてそのうち覚醒剤に手を出す奴がいるんだ。一発打ったら廃人だよ。覚醒剤は金がかかる。クスリ欲しさに傷害事件を起したり大きな事件につながるんだ」「留置はつらいだろ?そんな辛い思いをお前の友達にさせたくないから名前をいわないのはわかってる。でもな、そうさせたくないのだったら今の時点でその友達に目を覚まさせ、反省させるのがいちばんいい方法だと思わんか?友達が覚醒剤に手を出したらいやだろ?まだ今なら救えるんだ、友達。」と、とにかく大麻と覚醒剤を直結させたり、交友関係を調べられる際に仕方なく友人の名を出すと、全員疑惑の対象に挙がり、心情に訴えかけては繋がりのある人間を芋づるに挙げようとしているのが感じられた。そのうち「誰でも良いからお前が知っている限りの大麻関連者の名前を置いて行ってくれよ、そしたらお前も楽になるしそいつも救えるから」という流れに移り、私の事件なのに誰かを謳えというのはおかしいと感じ、納得できない私は結局最後まで誰ひとりチクらなかった。
このような調べが、逮捕から連日のように行われた。刑事は調べの度にパソコンで調書を作成し、その場で読み上げて私に聞かせ、異存がなければサインと指紋を捺印した。調書は、私が言ってもいない台詞や心境の脚色がしてあり、どこまで「それは違う」と言っていいのかわからず、「だいたい合っているな」と思ったら承認捺印していた。常に調べでは気を張り詰めていて、終わって女子房に戻った時には毎回グッタリしていた。
実際、調べ中に誰かを警察にチクると刑が軽くなるのは本当のようだ。
ある時の検事調べで順番を待つあいだ同室になった、他の管轄からつれてこられた、暴走・傷害・公務執行妨害・覚醒剤反応の出た勾留20日目の20歳の子がいた。他の暴走グループの子の名前を数人出したところ、なんとその場で不起訴・釈放になったのである。そんなことがまかり通るのかと心底驚き、しばらく怒りが治まらなかった。彼女は「あんたもウタッたら(チクッたら)いいんだよ」と勧めてきて、複雑な思いであった。
検事調べとは、ある程度の刑事調べが終わると行われるもので、刑事調べと同じ内容を検察庁が行う。供述に間違いがないかを確認しているのだった。検察官は鉄仮面のような無表情な人で、この人は普段もこんなに冷たい表情なのだろうかとぼんやり思いながらも毎回緊張していた。
そんな中、9日目に突然釈放された。わけが解らず出ると担当刑事が立っていて、特に説明もなく、服を着替え、荷物を全て持って刑事に連れられ、手錠腰縄なしで外に出た。歩道に出たところで「大麻草栽培・所持容疑」で再逮捕された。しかも通行人の非常に多い場所で。写真を撮られ、一人の刑事はその場で手錠を取り出し私の手に掛けようとしたが、さすがにもう一人の刑事が「車の中でしろ」と指示を出した。たぶんそうだろうとは思っていたけれど、まさかこんな公衆の面前で・・・と大ショックだった。後でその写真を調書の中で見たが、たとえようのない悲しい顔をした私が写っていた。
その後別の管轄の留置所に移され、前の所とのギャップに驚いた。担当さんは全員男性で、部屋はとにかく薄汚なくて臭くて狭く、電気も薄暗く、壁には手でインク汚れが擦り付けてあり、支給されたボロボロのアクリル毛布には髪の毛が大量にこびり着いており、男の収容者の大声がひっきりなしに轟き、しばらく声を殺して大泣きした。本当に惨めだと感じた。
しばらくして調べに出ていたらしい同室の女性が戻ってきたようで自己紹介などをした。こちらでは番号で呼ぶことはせず普通に名前で呼んでもいいようで、管轄によって色々違いがある事を知った。まずこちらはビックリするくらい食事が貧相であった。ごく少量の黄色い御飯(玄米などではなく、単純に黄ばんでいて、しかもクサイ!)と、居酒屋の突出しのようなおかず1・2品とか、酢飯のみ・おかずナシとか、悲惨だった。汁ものもなく常に飢餓状態で、情けない事に私はいつも食べ物のことばかり考えていた。飢餓状態というのは本当に辛いもので、時間の流れが非常に遅く感じられる。こんな食事なのに、だいたいその時間になると「まだかな」と思ってしまう自分がほんとうにイヤでたまらなかった。
前の留置ではベビーローションやリップクリームは購入できたが、こちらではそういったものは、化粧品に当たるものとみなされ使用は認められず、私は乾燥肌なので非常に辛かった。唇が割れて血が出たら、ようやくオロナインを塗ることのみが許される。朝食に出る給食用マーガリンをこっそりトイレに隠して、それを唇に塗ってしのいでいた。「前の留置所に戻りたい」と毎日思っていた。
この留置所は女子房は一室のみで、仕切り板で見えない配慮はしているものの、実は形だけで、取り調べや運動の時間に姿を見られていて、彼等に「××チャンかわいいね、顔見たよ」と壁越しに言われたり、同じ留置所内や他の留置所の男子から「文通しませんか」という手紙が次々届き恐ろしくなった。フルネームも、罪名もバレていた。中でも他の留置所から「新聞で君の事件を読みました」という手紙が届いた時は絶句した(房内で新聞は読めるのだが、当留置所に収容されている者の事件の報道
記事部分は切り取られて読むことが許されない)。新聞報道があったのをこんな形で知ったが、中には適当なことを書いて、返事が来る確立を高くする者もいるらしいので、本当に報道されたは定かではない。
仕切り板のあいだから、角度によってはある男子房からなんと女子房内はおろか、トイレが見えるので、その男子房内からこっちをモロに見ている男の姿に常にビクビクして過ごさなければならず、私はいつも男子から見えないであろう位置の壁にへばりついて耳を塞いでいた。
男子は留置所内で毎日大声で他の房の人に話し掛けていた。低俗な話、所属する組関係の話、覚醒剤の話、自分の事件の判決の予想話、飯が最悪だという怒り、喧嘩も絶えず勃発し、騒がしい事このうえなかった。留置所内での会話は証拠にならないので、みんなビックリするような事実を普通に話していた。覚醒剤を買うなら俺んとこで買えとか、実は余罪があってバレないように気をつけているとか、担当さんがいてもお構いなしである。覚醒剤中毒者も数回収容され、幻覚に悩まされ夜通し一人でブツブツ喋ったり叫んだり暴れたり、それを聞いてて、私は「あーほんとに覚醒剤って最低だな!」とつくづく思った。大麻と覚醒剤を一括りに薬物指定とする警察の方々には、もっと真剣に勉強してもらいたいと心から願う。
収容されている人たちは本当に単純明解で、喜怒哀楽がマンガみたいにハッキリしていた。でも時々真剣な話もしていた。「俺、今回のは実刑確実だから最低でも7年食らうんだよ」「あんまり落ち込むなよ、7年なんかすぐだから」「家族が心配、ガキも小学生になっちまうし」「頑張れよ!」「元気出せよー!」といった具合に、ここの留置ではみんな励まし合って日々のつらさに耐えていた。私に対しても「大麻なんかすぐ出れるよ。しかし気の毒だなぁ、そんな屁みたいなものでこんなとこ入れられて」「絶対に弁当持ち(執行猶予のこと)で帰れるから元気出せよ!」と大勢で私の事件は楽勝だと励ましてくれた。この時ばかりは本当に心強く思い、彼等の開けっぴろげで解りやすい性格に感謝した。
一度、親の話になり、「階段から母親を突き落とした」と自慢げに話をした人に対して、他の人たちが「お前は鬼だ」「最低だ」「親を粗末にするな」と非難の声が留置所内にこだました。留置所内で道徳的なディスカッションをしているなんて誰も考えてないであろう、でも私はそのやりとりに素直に感心していた。
しかしやはり逮捕され留置所に入れられる人間というのは、再逮捕を繰り返しては人生の大半を留置・拘置・刑務所で過ごしているような、性格も攻撃的でしかも幼稚だったりまともな話ができない人が多いそうで、私のような、一見してどこにでもいそうな普通の人間は少ないらしい。担当さんはそういう荒くれ者の面倒を見てきてるので、「××さん、あいつらが話し掛けてきても相手にしたらダメだよ」といつも念押しされた。最初は担当さんも厳しいのかと思っていたけれど、留置生活の中で話をできるのは同室の人か担当さんくらいしかいないわけで、後にも書くが精神面で助けられた事もかなりあった。
もちろん皆がみんな手厚いわけではない。病院ではないから、実際病気になっても最低限の看護しか認められない。私は逮捕されてから釈放までの間、生理が止まったままで、粗末な食事により中枢神経に支障をきたしていた。留置内で重病を患い、明らかに緊急入院すべき状態の人が数時間放置される悲惨な場面もこの目で見た。その他、担当さんではない事務員のような女性が私の身体検査や室内点検をする際に、まるで汚物を触るような手つきとオーバーな嫌悪の表情や発言をすることもあった。同じ女性であり同じ人間なのに、犯罪者というだけでゴキブリのような扱いしか受けられないのか・・と心底やりきれなくなった。後日友人にそのことを手紙に書いた。しかし「そこに入っている以上は仕方ないから・・」という返事だった。冷静に考えると確かにそうだなと思い、以後はそういう扱いに耐えることにした。惨めだった。
しばらくして両親が初めて接見に来てくれた。接見室のドアを開けると、アクリル板の向こう側に両親が着席していて、それを見て、正直このまま死んでしまいたい心境であった。事件のいきさつをそこで初めて明かした。私は両親に対して始終敬語だった。普通に話せなかった。母は「(お前を)信じていたのに・・・!」と突っ伏して嗚咽しながら大泣きした。年老いた小さな母が号泣する姿はとても辛くて見れなかった。
普段無口な父が静かに口を開き「弁護士はどうするつもりなんだ?」と聞いてきた。「これ以上ふたりに迷惑はかけたくないので国選にします」としか言えなかった。私選にすると、裁判で有利な方向へ導いてくれたり、何といっても保釈(仮釈放)が可能であるというメリットがある。しかし裁判が終わるまで、費用が数十万〜300万円ほどかかるのである。それに対して国選を選ぶということは、保釈なしで裁判までずっと留置所と拘置所にいるということを意味する。両親をこんなふうに悲しませ、こんなところにまで来させた事を考えると、私はこのままここで不自由な生活を送る制裁を受け反省してしかるべきだと判断した。
泣かないつもりだったのだが、父があんまり私の目をまっすぐ見るので「これまで父とこんなに向き合って話した事はなかったな・・」と気付いた瞬間、急に目が熱くなり涙が溢れてきて、うつむいたまま両親に「ごめんなさい」と謝った。涙が後から後からボロボロこぼれ落ちた。色々な思いが交錯し混乱した。こんな純朴な家族を悲しませるとは何という親不孝者だろうと自分自身が憎らしい思いで一杯になった。
逮捕から21日目、最初の譲渡の罪で起訴された。これで正式に犯罪者である。前科一犯となった。しかし、栽培・所持の件についてはさらに取り調べが行われ、49日目に追起訴となり、一気に前科三犯となった。栽培していた大麻草は鑑識にまわされ、茎や根などの不要な部分も換算され、総量が数十グラムを越えていた。もうこのあたりにくると諦めの境地に入っていて、それに対して「根や茎は外してくれ」と主張する元気は残っていなかった。吸引についてはなぜか起訴されなかったのが未だに謎である。
追起訴も終わり、もう調べ自体は終了したので後は拘置所に送られるのを待つのみの身となった。1日中留置場を出ない日も増えてきて、とにかく何もする事が無いうえ男子房は相変わらずうるさい事このうえないのでノイローゼ一歩手前になってきた。
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